性善説と性悪説

性善説と性悪説

一般的には「生まれた時に人は善人で生まれるのか悪人で生まれるのか」という解釈で議論されることが多いこの言葉。

今回は少し違った角度からこのことについて考えてみようと思います。


私達一般人から見たテレビで映るようなキラキラした世界で活動しているあの人やこの人。

ある程度の地位まで登った有名人が、例えば汚職に手を染めたり覚せい剤使用者となってしまったり、いわゆる「悪い事」をしてしまったニュースを見た時、多くの人はこう思うのではないでしょうか。

「せっかくそこまでがんばってきたのに、もったいないなぁ、もっと上手にやれなかったのかなぁ、理解できんわ」と。

そうです。本人も同じことを思ったはずです。

なのに、「悪い事」をしてしまった。

なぜでしょう。

答えはひとつではないかもしれませんが、こう考えるとしっくりきます。

「その地位を捨ててでも、その「悪い事」をしなければならなかった」

ということです。

そこまでしてでも、なぜ「しなければならなかった」のかは、きっと当事者ではない他人は本人からじっくり話を聞かずして理解はできないと思いますし、真実はきっと本人固有のものなので、本人でなければ100%の理解はしてあげることはできないと思うのです。

人は「善」のためにしか本気を出さない(性善説)と考えると

「悪」いと分かっていたはずなのに、いつのまにかそのことが「善」いことに変わってしまっている、という点に注目できます。

なぜ「悪」が「善」へと変わったのかのトリックはこうです。

「客観的に物事を見るか、主観的に物事を見るか」で答えが違う、ということです。

客観的に物事を見れば、悪い事を「悪い事」と誰でも判断できます。しかし考え方によっては、主観的に物事を見た時、その悪い事が、「良い事」と言わないまでも「そんなに悪い事ではない」という捉え方になるようなことは、大なり小なり、多かれ少なかれ誰にでもあるはずです。

赤信号、横断歩道、急いでいる、だれも見てない、夜中、車走ってない→信号待てますか?

「そんなの渡るに決まってるでしょう、急いでるんだから」

という答えの方、もう客観的から主観的に物事が移ってますよ。

客観的「赤信号は止まれ。渡っちゃいけない。渡ったらルール違反」
主観的「犬が逃げて捕まえるのに急いでいる、歩道の向こうで止まった、信号は赤だけど、早くいかないと犬が危ない、渡ったらルール違反だけど、その罰よりも犬を危険から守りたい、信号を無視して渡る」

客観的な思考で行動していれば、およそ間違う行動はとらないですよね。しかし主観的行動をとった人は「悪い」ことをした人ですが、本人にとっては善いことをしたと思っているはずです。

その悪いことをした人にとっては、誰からも善と見られるボランティア活動も善、誰からも悪と見られるルール違反も善なんです。

その人にとっての正義は悪いことであったと認識していたとしても善としてあるんですね。

問題の大小多少はあるにせよ、原理は同じです。


こう考えると、社会で生きていく上で必ずある他人との摩擦。

その相手が「なぜそんなことを言うのか」や「なぜそんなことをするのか」と考える時があれば、こう考えると心が和らぎます。

「なにかの事情がこの人にはあって、本人も言いたくない(したくない)のに、言ってる(してる)んだなぁ」と。

情報を受け取る側も、主観的意識から客観的意識へと変えることで、物事の見え方が変わり、より気持ちの良い生活環境が自分から作れるのではないかと思うのです。

ダメなものはダメです。

ですが私は性善説を信じています。


なので妻からは「あなたは楽観的」と思われてると思います。。

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