ジョハリの窓 活躍する人
活躍する人
私太田は、現在42歳、高卒です。
勉強したくなかったのと、当時は「音楽のプロになる!」という明確なやりたい事、成りたい姿がありました。
その進路を決める25年前の学生時代から社会に出たころは「大卒」が主流となってきました。(今でもそうなんですかね)
特に親が、我が子の出来不出来はさておき「大学まで出ておく」ということを子どもに促していた家庭が多かったように思います。
「大卒=賢い」と高卒の人は思ってるんものですし、「大卒=給料が良い」ということも一般的な共通認識だと思います。
しかし現在は社会に出て、経営者であれ会社員であれ一通り社会の色々なタイプの人に出会い、気付くことがあります。
「あれ?この人高卒なのにすごい賢いな」
「あれ?この人高卒なのにすごい出世してるな」
それとは対照に
「あれ?この人大卒なのに賢くないな」
「あね?この人有名校の大卒なのに出世してないな」
結構あります。
なぜこの現象を多く散見するのかと考えた時に、ジョハリの窓が浮かんできました。
この図を、以下のようにしてみます。
社会で活躍している
大 ↑ 大
卒 ① | ③ 卒
で ←ーーーー+ーーーー→ で
な ② | ④ あ
い ↓ る
社会で活躍していない
学生時代では、なぜか③④の位置を重視するんですが、なぜなんでしょうか。
それは「学力があると社会に出てからの選択肢が増える」とよく言われます。
もちろん学力や●●大学卒というようないわゆる「ブランド」が無いより有ったほうのが良いですが、社会でその部分を求められるのは、始めだけです。
会社は、結果を出せたり、創造力の高い人間が欲しいのですから、学力だけで結果を出せたのなら、「大卒=結果を出す=出世する」となっていなければおかしいですよね。
でも現実では、「大卒=結果を出す」と「大卒=結果を出せない」の比率は半々。
「高卒=結果を出せない」と「高卒=結果を出す」の比率も半々に私は見えます。
気付くと、上記のジョハリの図にもある縦軸(↑↓)で分け、
①②の「大卒ではない」「③④の大卒である」という学生時代の価値観から、
横軸(←→)で分けられる「①③の社会で活躍している」「②④の社会で活躍していない」への価値観が移行していることに気付きます。
③の「大卒で社会で結果が出せる」が最も良いです。
でもその次に良いのは①の「高卒で社会で結果が出せる」ですよね。
次に良いのは②の「高卒で社会で結果が出せない」だと思いませんか。
最も良くないのは④の「大卒で社会で結果が出せない」だと思うんです。
なぜか。
それは、②と④ではお金と時間のかかり方が違うからです。
②の「高卒で社会で結果が出せない」は18歳までの時間と費用。
④の「大卒で社会で結果が出せない」は22歳までの時間と費用。
働くことができるまで親や社会は一人の人間を育てるために環境を与えています。
同じパフォーマンスなら、費用が掛かる④を減らし、②を増やした方のが良いと考えることもできます。
「④でも、余分に時間や費用がかかった分知り合いが増えたよ」や「学びをお金で買ったんだから」と色々なご意見もあるかと思います。
では、その④の人間は、自分の子供に同じことをみんなができるのか、という質問をしたいです。
収入は、昭和~平成時代と比較して、平成~令和時代は多くなりそうですか?
私は確実にこの10年は全体的に一人当たりの年収は下がると思っています。
バブル期の名残を少しは受けていた40歳前後の世代は、現在中間管理職についているくらいでしょうか。
社会基盤はこの20年で飛躍的に高まり、給料もそれなりにあって働きやすい環境へと年々なっているかと思います。
しかしそれと比例して、「社会で活躍する機会や場所の減少」も感じます。
コロナ禍において、さらに企業の未来展望を軽視できなくなった今、大切に大切に育てられた身体だけが大人になった子共は、いきなり社会で求められる環境についていけるのか非常に疑問です。
学力も大切です。
でも勉強ができる賢さではなく、社会で通用する賢さを身に着けさせなければ。
社会で特殊な学力を必要とする分野は限られています。その限られた分野への進路なら、大いに勉強をする必要がありますよね。ただ、ほとんどはそうじゃない。
社会制度自体の問題なのかもしれませんが、「社会で活躍できる」「社会で通用する」そんなテーマの学びを学生時代にもっともっと得ることができる仕組みと成ったら、ニートの問題や自殺者数の減少に大きく影響をさせるのではないかと思います。
併せて、社会(会社)で活躍できる人間も増えるのだと思います。
私は②でした。
今は①を目指して奮闘中です。
でも余裕ができたら③になりたいです。
大人になってからでも学べますし、大人になってからの方が学びの質が深いと思います。
50歳の大学生、憧れます。